【武術・兵法】心意拳の生き様とか#1

武術・兵法関連

こんにちは、軍曹です

改めて、私の実践する武術は『戴式六合心意拳』と言います。中国武術です

日本人ではありますが、なぜ中国武術なのか?まだ、私はギリギリそのブームの終焉あたりの時期にいたのであります。と、いうかもはやなかったのかもしれませんが、私はそれに魅了されていたためとも言えます。その辺は、これを参考にどうぞ

心意について概要でも認識いただき、こんなことやってんだね、と認識いただければ幸い

冠する名の意

戴式、とは『戴さんのやってた』的なニュアンスです。以前にも書いておりますが、戴の拳は、外伝したため、戴氏ではなく、戴式、となるのであります

即ち、戴氏となれば『戴さんの』ということです。で、私の実践する拳の正式に言えば『王氏戴式六合心意拳』となります

長いでしょ?だから短く心意拳と称します

よく『戴氏心意』と他の練拳の士達が称している場合がありますが、それだと経緯云々が変わります

まぁいいやん、となるのですが、この過程や経緯、体系というのは極めて大切です

伝統の証明

以前にも書いてますが、私の師は日本人です。当時『秘密拳法』などと称されていた、山西省祁県のど田舎で、その拳は確かに受け継がれており、中国人から初めて外国人に伝承されたのであります

この拳自体元々は一子相伝であり、要は家伝であり、しかも、練拳する姿は見たことがないというくらいの保全性の徹底ぶりで、さらには『みだりに伝えるくらいなら、失伝させよ』と言い切るくらいに伝統継承と、その保全に命を懸けていたようです

即ち、それだけ体系がはっきり明確に伝承されている、ということです

あっちゃこっちゃ広めると、元がなんだったのかわからないってことがない、ということです

その証明はもちろん物的証拠もありますが、それこそ、真の証明によって、その拳の伝統を垣間見ます

じゃあ、やって下さい

と、いうと

『は?』

となる人は多いものです

まさにこれってその道、その人の真価、その道を示す格好のチャンス、かつ、証明です

それを、私の師は、当時初めて会った師の師(王映海)にこれを申して立ち合いをしたのです

『失礼なやつだ!』『君は馬鹿にしてるのかね?』

なんてことが聴こえそうなところですが、その実は、なんてことはなく、すぐさまその技法を用い、さらにはこれもあれもと次々と仕掛けてその技法を体現で以て、見せたとのこと

ここで、この拳の伝統の素晴らしさが証明されたのです

やったことは、離れた位置に、棒立ち、あるいは構えて立っただけです。

なんとでもできそうでしょう?でも、全然動けない人は動けません。私も教えてた手前まず初めに同じことを来た人にやりますが、空手を何年もやってきた人でも、動けませんでした

要は、じゃあみせて、やって、と要求されてそれに即応できないと、その道の者、とはいえない。即ち、口だけでいざ見せてと言われて、文句が先に出るようなら、修養修練に疑いがある、ということです

つまり『主体的』にできますか?ということです

あなたはできますか?

じゃあやってみせてください

伝統的な教授とは?その1

まずは弟子入りして、じゃあ教えて下さい、といって教えてもらうものではありません

教えて下さいといって、教えてもらうのは、実は、まずい

何故なら、それを以て、それしか知らないからです

つまり、基本もクソもなく、それだけ教えて満足して帰る、というのは極めて危険なのです

弟子入りすれば、まずこれを、といったものをクリアしていかないと、次の段階にはいきません

それが何十年かかろうと、です

短くて3年、長くて死ぬまで、なのであります

そんなん嫌だから、教えてもらわないと、飽きてしまう、だから違うの教えて、は御法度。だったら辞めればいい、となります

そして、講義的な教授形式はとりません。講義的とは、簡単に言えば学校教育です。兵隊を育成するには向いてますが、伝統では教えながら、共に実施します

伝統的な教授とは?その2

昔なら、なんかやってみろ、と言われて、己が主体的に取り組んでるものを表現し、それに対して指導をもらったり。でもダメだとすぐどっかにいく、みたいな感じです。職人さんみたいなものです

主体的に行わない限り、表現などできませんし、いつまでも教えてもらうことを待っていても成長はありません。自得がない。

かつ、教え方が下手ですね、というなら最早、それは学ぶ気がないのと同じです。

学びとは、心から顕れる姿勢、態度が根源といえます。

要は姿勢や、素直な心意気というのは上手い下手できる出来ない問わず、極めて大切なことです。かつ、志です。何を得たくてどうしたいのか?己に問えぬならば、その心はないに等しい

実は、あらゆる武術・兵法書にも書いてあるのです

厳しさとはそのようなことです。荒いものが洗練されて極めて素晴らしいものになる。それは師匠でもなく、誰でもない、己が得ていかないとそうはなりません

ですので、これでいいや、と自己完結すれば、それはそれでもうお終いなのです

功夫を積み続けられること、が極めて大切です

武術実践の極意の一つ

…とはいえ、現代だと、そうするとなかなか伝統継承が難しいので、一緒に楽しんで実践しながら、教える・教わる、という感じです

体現で、肌と肌を合わせて心でわかる、ということを重要とします

上記のことをまとめて、一重にコミュニケーションは武術習得及び実践においての、極意の一つともいえます

それは志から始まり、素直な姿勢や態度を以て学び、楽しみ、かつ常に克己し、功夫を積み上げ、己の志を成し遂げていくこと、常に初心であることが大切ですが、1人だけでこんなことはできません。師匠や仲間達とのコミュニケーションあってこそ、なのです

最後に

心意についてと、伝統的な教授については滔々と述べましたが、要は、じっくり楽しんでやりましょう、ってことでいいです。

そうゆうものが、あなたの人生にありますか?

武術でなくとも構いません。私はこれをやってるんだ、というものが表せられるかどうか

人生をより深く、楽しいものに、そして得るものもあり、生き様ともなります

何にもない、と嘆くあなたに、武術を楽しんでみませんか?と問うものでもあります

ずっとブログなどを通して世に問いかけていきたいと思います

それではまた。

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